1988年3月資本金1,000万円で県西地方法務局に登録いたしました。
以来20年余堅実にそしてまじめに仕事をさせていただいております。
お陰様で[JA]より信頼され指定業者の一端に加えてもらうことができました。会社が代表となり新規に墓地造成分譲の認可もいただきました。会社としても心強く、お客様にとっても安心していただける4代目篤志が取締専務に就任し、日々精進しているところでございます。
会社の経営は人とモノと金の動きであると言われます。重要な人、大切なモノ、そしてお金、私達はここに『こころ』を入れて仕事をしています。『こころ』は目に見えません、仏様も神様も見る事はできません。「愛」さえも見られないのです。夫婦の愛、子供達への愛、見せる事も見る事もできません。
しかし、私達の仕事の中に「こころ」はあります。一ヶ所でも、そして一言でも感じてもらえたならば、それだけで本望です。決して裏切ることなく、できるだけ間違いは起こさず日々の努力は怠らず「おかげさまで」の気持ちは忘れずに仕事をさせていただくそれが(株)石の大雅の本当の仕事です。
「墓石建立完成の後、御住職様に魂を入れていただく儀式」(ただの石より仏石となる瞬間です)
車で走っていると道路脇に花束が置かれている所が見られます。
私の知っている所も20年以上前の事故死でした。部外者にはわからない心理ですが当家の方にとってはまだまだ昨日のことのようなのです。お墓の石もそうです。家の人が何十年も(それ以上かも知れません)想いをこめ手を合わ祈ってきた墓石なのです。
『念ずれば花開く』
と言う坂村真民先生の有名なお言葉があります。「念」とは「強大な想いの力」だと考えられます。
墓石には「念」が籠っています。
御住職様が満身の力を込めてその言魂(コトダマ)にて霊魂の存在を一時お移り頂くことを閉眼と言います。白い菊の花を飾りお香を焚き家の人も御住職様の指示に従い魂の安穏を願い礼拝をします。最後にその地のお清めをして閉眼供養式を終わります。
閉眼供養式に必要とされるものは別紙にありますので参考にして下さい。また地方、宗派などにより若干違いがありますので住職様にご相談していただくとよいかとおもいます。
生前にお墓をつくることを寿陵といいます。
建立者の文字が朱色に染められているのを見たら、それが寿陵墓です・・・
・・・このようなことが定説のごとく語られています。またいかにも御利益があるかのような文章もあります。でもこれは石屋さんや石屋さん関係者ぐらいだけではないでしょうか。(私も石屋ですので使う事はありますが)
お墓は生前につくる、あたりまえです。死んでからは作れません、作っておくことは本当に良い事です。「モウコリタ」忘己利他、必ず自分の行き着く所なのですが今はお墓をつくれるようになった自分をここまで育てていただいた御先祖様への感謝報恩の形として、また末永く健康で過ごせるよう願いをこめて作ること、これが本当の意味での寿陵ではないでしょうか。
決して自分の為のお墓はつくらないで下さい。神様、仏様の力は強大です。だから今年はいいことがありますようにと年の初めに、またその時々にお参りに行くのです。自分が入る為に作ったのだから「じゃあ入れば」と一年以内に入るようになってしまいます。
もう一度言います自分の為のお墓はつくらないで下さい。
現世にいる事のできる私達には「命」があります。
仏教的には誰かの生まれ変わり、また西洋神的には肉体は神からの借りたものとされています。
どちらも、心(命)は自分自身だけ唯一無二なのです。自分の命を大切にする。両親の命を大切にする。そして御先祖様の心を大切にする。これは現世に生きる私達だけができる、尊い命のリレーと考えます。
命は繊細でもろく、本当に弱いもの。
たった一言で大きなダメージを負い、目に見えないウイルスで命を落とします。大切な命を守る為にできることの一つが、御先祖様にお願いすることではないでしょうか。御仏壇に線香をあげて、心静かに手を合わせ諸事の報告をし、今日一日を感謝し、そして最後に一つだけお願いをする。これが「ごりやくにあずかる」ことと思われます。
ただし、間違ってはなりません。御先祖様は手を引いてはくれません。方向も示してはくれません。ただ正しい道を歩こうと思った時、そっと後ろから押していただけるだけなのです。
さあ!一歩踏み出しましょう。すばらしい御加護を信じて。
私達は、目に見えないものに畏れを抱き、霊的なものを感じて、時には無意識のうちに手を合わせてしまいます。お墓や御仏壇に手を合わせる時、字の書いてある石ではなく、また木の箱ではなく、奥深く中にいるかもしれない魂、遠く西方に行っているであろう魂に、手を合わせているのだと思います。
日本には八百万(やおよろづ)の神々がいて、私達を守ってくれています。
結婚する時、赤ちゃんが生まれた時、20歳になった時、それぞれに神頼みをしています。樵(きこり)の人は木を切るのに、1本1本に宿っている木の魂に詫びるため、まさかりにあるおまじないが施してあります。
仏様の世界にも同じように、八百万(はっぴゃくまん)の仏が居ると言われています。高いところから見ていてくれる仏様、草場の陰から見ていてくれる仏様は、私達の一番身近にいる仏様ではないでしょうか。
お墓参りは、身近な仏様に逢う事のできる所、どんなグチでも聞いてくれます。できれば楽しい事、良かった事を報告してあげたら、どんなに喜ぶ事でしょう。喜び事を喜んで御報告すると、喜び事が喜んで、また入ってきます。嫌な事は水に流し、グチは川に捨て、笑顔でお墓参り。
明日もきっと、良い1日になる事でしょう。
今です。
今日です。
この文章を見ている今あなた様の背中で、あなた様をかわいがって育ててくれた御先祖様が「そろそろ作ってくれや」 とささやいているのです。
「うちでもお墓つくらなくては」と思ったのはいつでしょうか。どのくらい時間がたっているでしょうか。
最初にお話をしたのは旦那様でしょうか、奥様でしょうか。その方に亡き御先祖様が背中で訴えているのです、頼られているのです。
子供達に頼られる、孫達にじいちゃん、ばあちゃんと頼られる、多少無理なことでもやってあげてしまう、生きている事の幸せを肌で感じる時ではないでしょうか。
そして今、今度は御先祖様が頼ってくれています。できない事を、できない人には誰だって頼みません。御先祖様は「おまえならできるよ」と頼っているのです。無理をせずに見栄をはらずに心より手を合わす事のできる形をつくってさしあげましょう。
現在はありません、しかし徳川幕府は決めていたようです。武士・名主はこのような形、一般平民は高さ4尺までというように階級、位によって形、大きさが決められていたようです。昔の人がお墓に行けばその家がわかると言われていたのはその為だったようです。
第二次大戦後極端な資本主義、お金至上主義となり、お金さえ出す事ができればどのような形でも作る事ができるようになりました。二千万円も三千万円もお金を出してお墓を作ってくれる人は石材業の方々にはすごく良いお客様です。何度でも腰を折り頭を下げます。しかしそれはお金に頭を下げるのであって礼を尽くし御先祖様を敬う心での姿ではないと思います。
お墓は見栄で作るのではなく、真心で手を合わせる事のできる形、自分だけが満足する形でなく、子々孫々永代にわたり墓前にては自然と頭を下げられる、手を合わせる事のできる形が一番よい形であると思います。
当社では御家族の方がまた御先祖様が喜んでいただける墓地作りをご提案いたします。
多くのホトケ様の中で私達の一番身近にいてくれるのが「お地蔵さん」です。どのような願い事も頼むことのできる「菩薩様」として何百年も前より一般に認められてきました。身近にいてどのような事でも、という訳で専門技術を持ったお地蔵さんが多く誕生してきました。
「とげぬき地蔵」「水子地蔵」また「身代わり地蔵」などは代表選手のようです。私達が建墓の際安置させていただくのは専門職のお地蔵様ではなく、どのような願い事でも頼むことのできる「地蔵菩薩様」としております。
どこの家にも「見づ児」はおります。誰だって取ってもらいたい「とげ」はあります。「あ!あの時」と身代わりになっていただいたことは一度や二度はあるんです。「お地蔵様」はこのような願い事を聞いてくれます。大難が小難にそして無難に過ごせるよう知らず知らずのうちに方向づけをして下さっています。
先祖がいないから、うちは仏がないからと言って墓を造らないのではなく、報恩感謝の表れとして囲いをつくりお地蔵様を安置し「○○家先祖代々精霊菩提」と刻んだ石標を立てましょう。「○○家之墓」の石塔は次代の人にまかせて大丈夫です背中を見て育っていますから。「あの人は手を合わせなかったのになぜ手を合わせるんだ」ではなく真心で手を合わせてもらえる御先祖様になる為に、また「・・・・・のに」は使わなくてもいい人生を過ごせるように是非『形』をつくることをお願い申し上げます。